「祐一さん」 暖かい春の日の午後。 人の行きかう街角で、祐一は声をかけられた。 「……? 誰だ?」 振り向いたそこには、いるはずのない少女がいた。 「え、しお……!」 驚く祐一。 その彼の表情に、満足そうに微笑む少女。 彼を驚かせるためにここに来たと言わんばかりに。 「し、栞!?」 祐一は、久しく呼んでないその名を口にした。 「はいっ」 名前を呼ばれた少女は、満面の笑みで答える。 春の風に短い髪をはためかせ。 青空と、信号の青を背景に、栞と呼ばれた少女は笑う。 「あ、あれ、でも、栞って……あれ?」 混乱する祐一。 祐一は、栞のことを幾度となく香里に聞いている。 その様子からすると、ここにこうしているような状態に、栞はないと思う。 「抜けて、来ちゃいました」 悪戯っぽくそう笑うと、栞は祐一に抱きついた。 春の風のように、自然な動きだった。 「うぉっ、し、栞?」 公然で抱きつかれた羞恥。 好きな少女の思わぬ積極的な行為。 既に混乱していた祐一をさらに混乱させるには十分だった。 「えへへへ……」 その、弱く、力強い抱擁は、祐一に栞の存在を認識させるのには十分過ぎた。 「いや、しおっ……あのな……」 祐一は引き離すことも出来ず、かといってこのままではあまりに恥ずかしすぎ、どうしようもなくうろたえていた。 頼りがいのある、いつもクールだった少年の、初めて見せる姿に、栞の悪戯心は増長した。 普段出来ないこと。 今まで出来なかったことが、何でも出来る気がした。 行き交う人々。 信号が変わるたびに通りすぎ、遠くから二人を微笑ましく眺め、去っていく人々。 暖かい春の午後。 空の青自体が光を放っているような日。 栞は、大きな声で叫んだ。 「祐一さんっ、大好きですっ!」 「ふう……」 祐一が落ち着いたのは、二人が百花屋に入って、祐一のコーヒーが運ばれてきた頃だった。 一口目のコーヒーが祐一に安らぎを与え、何とかいつもの落ち着きを取り戻すことが出来た、 「栞はいつからあんなに大胆になったんだ」 祐一はため息とともに言う。 栞はそんな祐一の様子を見ながら微笑む。 「昔から、って言ったら信じますか?」 「ま、そうだな。休んでる癖に学校に乗り込むような大胆不敵な奴だったな」 「そういう意味じゃありませんっ」 今度は栞が声を荒げる。 調子を取り戻した祐一といつもの栞。 お互いにいつもの位置に落ち着いた。 「分かってるって。お前は勇気のある奴だ。だから、俺は……」 祐一はそこで言葉を止める。 ウインドウの外を見つめる。 栞がその言葉の続きをじっと待つ。 だが、祐一はそれ以上何も言うつもりはなかった。 「だから、俺は、何ですか?」 栞は催促してみた。 「さあな……」 祐一ははぐらかす。 「…………っ!」 「お待たせいたしました。小倉サンデーの方は」 栞が次の言葉を言おうとした時、栞のオーダーが運ばれてきた。 栞の興味がそちらに向いた瞬間、祐一は席を立つ。 「ちょっと、トイレ行ってくる」 「祐一さん、そういう時は無言で行ってください」 少し眉を潜める栞を背に、祐一はトイレへ向かう。 「…………」 百花屋のトイレの手前は手洗い場となっており、表からは見えない。 祐一はそこでポケットの携帯電話を取り出す。 メモリーから一人の名前を選び通話ボタンを押す。 「…………」 一度だけ表を振り返る。 そこからは栞は見えない。 「あ、美坂さんのお宅……おう、香里。俺だ相沢だ」 『……? …………?』 「あのさ、今、俺、栞といるんだ……」 『……? ……………………!?』 「いや、俺にも分からないが」 『………………? ……………………!』 「ああ、それは知ってるさ、さすがに。まあ、落ち着け」 『………………?』 「そう、かもな。ってそれしか考えられないか」 『……………………? ……………………』 「ああ、違う違う! 香里の気持ちは分かってる。いくらなんでもそんなことしないさ」 『………………』 「俺を信じろ。で、ちゃんと帰るように言うからさ」 『……………………………………………………………………』 「いやあ、そんなんじゃないと思うぞ」 『……………………?』 「だってあいつ……」 「待たせたな」 祐一は何食わぬ顔をして戻る。 栞は一瞬喜びかけたが、自分が今、怒っていることを思い出し、無視してサンデーを口に入れる。 久しぶりに食べるそれは、栞の怒りを鎮めるのに十分な役割を果たしたが、栞は怒ったふりを続けた。 彼女は祐一の方を見ず、ウインドウの外を向いた。 春の陽気もあってか、外は多くの人々が通り過ぎていく。 ガラスのこちら側まで聞こえる声で騒ぐ学生の集団。 子供を引き連れた母親。 ネクタイを緩めるサラリーマン。 そこから見た人々は、みんなとても幸せそうに見えた。 「なあ、栞」 「……何ですか」 栞はそっけなく答える。 「食い終わったら、ちょっと、町を歩かないか?」 「え?」 町を歩く。 あの幸せな人々の仲間になること。 それはとても魅力的な提案だった。 怒りなんて、どうでも良くなるくらいに。 「そうですね。そうしましょうっ」 自分でも単純だと思ったが、顔が微笑みを止めない。 祐一の、単純で助かった、という表情を見ても、許してしまえる。 それは早くその提案を実現したくて、急いでアイスを食べて頭にツンと来た栞を見つめる祐一の表情が、とても愛しそうだったから、かも知れない。 「祐一さんは、幸せの源って一瞬のことだと思いますか、それとも長く続くことだと思いますか?」 アーケード街のレンガ道を歩きながら、栞は唐突にそう言った。 「ん? そりゃ、継続的なものなんじゃないか? それが長く続くか短く終わるかは別として」 店舗のスピーカーから流れる流行歌。 いらっしゃい、のかけ声。 「私はですね──」 栞は、楽しそうにそれらを眺めながら、口を開く。 「一瞬のことだと思います」 弾んだ声。 断定的な、自信にあふれた声。 だから、祐一は、その考えに興味を持った。 「それは、どうしてだ?」 幸せそうに町を歩く人々。 彼らもその一員だった。 「例えば、とっても幸せなことがあったりしますよね」 薬屋、うどん屋、百円ショップ。 いくつもの店を通り過ぎる。 「それ自体は、多分一瞬なんです」 踏み慣らされた茶色のレンガ道。 無造作に留められる自転車。 「でも、その幸せの余韻や思い出で、ずっといい気分でいられると思うんです」 自動販売機の脇に、あふれかえるゴミ箱。 アーケード街の名前の書かれた垂れ幕。 「その長い長い時間を、人は幸せと呼ぶんだと思います」 「なるほど……」 祐一はうなずく。 栞の話にはいくらでも突っ込む余地はあった。 だが、それが出来ないほどに栞は自信に満ち溢れ。 そして、儚かった。 否定してしまえば、その存在があっさり消えてしまいそうなほど、栞は明るく、元気だった。 「その一瞬は、俺にはあったのかな……」 アーケードの切れ目。 いきなりの青空が二人の目を細めさせる。 春の太陽が二人を優しく暖める。 市街から、少し離れた通り。 店の数は減り、住宅が徐々に増えていく。 「俺は今、とても幸せだ」 祐一はそれには、その答えには、自信があった。 春の通りを栞と歩いている奇跡を。 好きな人の幸せな笑顔が見える喜びを。 そしてそれは相乗効果となり、栞をさらに笑顔にさせる。 「私も、幸せです」 その笑顔がさらに、祐一を幸せにした。 遠くで流れる流行歌は、恋の歌だった。 歩き疲れた栞を気遣って、祐一は公園へと向かった。 町外れの寂れた公園は、それでも何人かの親子がいた。 二人はその端にあるベンチに並んで腰掛ける。 暖かい風に、二人の髪が揺れる。 二人はしばらく何も話さず、そこに座って景色を眺めていた。 はしゃぐ子供たちの声。 それを見つめる親。 ブランコの軋み。 風に舞い散る桜。 どこにでもある春の風景。 「──なあ、栞」 祐一が口を開く。 「何ですか、祐一さん?」 栞が微笑む。 駆ける子供たち。 「俺は、お前が好きだ」 「……え?」 祐一のいきなりの言葉に、栞は驚く。 祐一の気持ちは知っている。 それを知っていることを祐一は知っている。 今、あえてそれを言う理由。 「お前は出会ったときから、儚げで……」 雪の降る日、二人は出会った。 栞は祐一を風のような人だと思った。 あの日から、栞は生に執着するようになった。 だから、学校へ行ってみた。 「だけど、思ったよりも積極的で……」 祐一は栞に会いに来てくれた。 だから、栞も、祐一に会いに行った。 「強くて……そして……」 二人はすぐに仲良くなった。 栞の精神状態が、平静であったとは思わない。 あの時は何かにすがりたかった。 手を伸ばしたところに、たまたま祐一が立っていた。 「普通の、女の子だった」 だから、掴んだ。 祐一はその手をしっかり握ってくれた。 「そんなお前と、デートもした」 だから、好きだった。 あらゆる不安が消えた。 「誕生日を過ごした」 その彼の、思いが。 本当の気持ちが。 「楽しかった」 彼女と同じなら。 この気持ちは、なんと呼ぶのだろう。 「いい思い出だから」 こんな気持ちを。 こんな気持ちこそ、幸せと呼ぶのだろう。 「絶対忘れない」 栞は今、幸せだった。 幸せの瞬間。 それが今この時だった。 「お前ごとな」 青い空も。 風になびく桜も。 この瞬間を演出するためのものだった。 「だから……」 完全に満ちる時。 何もかもが満たされる瞬間。 これ以上、求めるものは、なかった。 「だから……」 穏やかな、春の日。 穏やかな、桜の風。 穏やかな、愛する人。 「もう、成仏してもいいんだぞ」 幸せの瞬間。 それさえあれば、永遠に幸せでいられる。 だから、栞は永遠に幸せに。 「祐一さん」 その笑顔を胸に、祐一も幸せになれる。 「ああ、何だ?」 祐一の笑顔を心に刻む。 「今まで、ありがとうございます。今、とっても幸せです」 栞の声が響く。 狭い公園の響く。 これが、次の言葉が、栞の最後だ。 栞にはそれが分かっていた。 祐一も、何となくそれが分かった。 だから、少しだけ、間を置いた。 今、風に舞った桜。 せめて、それらが地に舞い降りるまで。 それは、ほんのひとときでしかなかったが。 十分な時間だった。 「祐一さん」 栞が口を開く。 何の未練もない。 今が至福の時。 「大好きです」 迷いもなく。 ためらいもなく。 その言葉が祐一を包みこんだ時。 それは瞬きの間。 栞はいなくなっていた。 祐一には分かっていた。 栞は幸せになれた。 だから、悲しむことはない。 むしろ、喜ぶべきだった。 最後の栞の言葉と笑顔があれば。 祐一はずっと幸せでいられる。 幸せは刹那の思い出。 大切な思い出。 祐一は、空を見上げた。 空は、とても青かった。 そこに、栞が笑っている気がした。 「あ、美坂さんのお宅……おう、香里。俺だ相沢だ」 『相沢君? どうしたの?』 「あのさ、今、俺、栞といるんだ……」 『え? それってどういうことよ!?』 「いや、俺にも分からないが」 『だ、だって、あの子、死んだのよ? いるわけないじゃない!』 「ああ、それは知ってるさ、さすがに。まあ、落ち着け」 『……それって、幽霊ってこと?』 「そう、かもな。ってそれしか考えられないか」 『ねえ、あたしのこと、からかってない? いくら何でもこういうことは……』 「ああ、違う違う! 香里の気持ちは分かってる。いくらなんでも俺はそんなことしないさ」 『そう、よね……』 「俺を信じろ。で、ちゃんと帰るように言うからさ」 『うん……分かった。でも、あの子、そんなにこの世に未練があったのかな……あたし、そんなこと全然知らなくて……』 「いやあ、そんなんじゃないと思うぞ」 『それは、どうして……?』 「だってあいつ……」 「すっげえ、幸せそうな顔してるぜ」 |