風子の夏


「海ですっ!」
 そう叫んだ風子の眼前に広がる海。
「んーっ、風子行きますっ!」

ぱたぱたぱた……

「って、待て」
 興奮しながら走っていく風子を朋也が止める。
「わっ、何するんですかっ」

じたばたじたばたじたばた

 朋也に頭をつかまれながら暴れる風子。
「んー、海です! 海が呼んでますっ!」
「落ち着け、まずは準備運動してからだ」
「大丈夫です。風子、準備万端てす。準備不足なのは岡崎さんだけです」
 風子が指摘する。
 確かに既に水着を着て万端の風子に比べ、朋也はまだTシャツに短パンという姿だった。
「ていうか、いい歳して水着を下に着てくるな。子供かお前」
「風子、子供じゃないです。どちらかというと水着を着て妖艶な魅力です」
 風子は根も葉もないことを言う。
「……幼稚園な魅力の間違いじゃねえか?」
「プチ最悪ですっ!」
 風子はやはり朋也に止められながら暴れる。
「全く。海に来ていきなり元気になりやがって。電車の中では寝てたのに」
「あれはたぬき寝入りです」
「それ、意味ねえだろ」

 今日、朋也と風子は海に来ていた。
 風子の体調がかなりよくなって来たのと、風子がどうしても行きたいと駄々っ子のように言ったからだ。
 最初は渚も来る予定だったが、直前に熱を出して今日は来れなかった。
「しかし、あちいなあ。何度あるんだ」
「岡崎さんは軟弱です。このくらい、赤道ギニアに比べれば大したことないです」
「まるで住んでいたように言うな。全然関係ねえだろう」
 朋也は風子を捕まえたまま言う。
 風子はすばしっこいため、一度逃がすと捕まえにくいからである。
「関係あります。今朝飲んできたココアの原産地が赤道ギニアでした」
「この暑いのにココアなんて飲むなよ」
「岡崎さんは遅れてます、ココアは美容と元気の源です。あるあるでやってました」
 風子は少し疲れたのか、暴れることはなくなった。
「ま、とにかくだ、最初は浜で遊ぼうぜ」
「山作ってトンネルを掘るんですか。確かに魅惑的な遊びですが」
「いや、ビーチバレーとかの事な」
 朋也が言う。
「そんな子供の遊び、しません」
「ていうか、山掘って遊ぶほうが……って」
 風子は朋也の隙をついて逃げ出す。
「風子はそんな遊びより海中遊泳しますっ」

たたたたたたたっ

 海へと一直線に走る風子。
「まてっ、準備体操くらいしろっ」
 叫ぶ朋也の言葉を無視して走る風子。
「うみですーーっ!」

バチャバチャバチャバチャバチャバチャ

 風子が波と戯れる。

バチャバチャバチャバチャゴボゴボゴボ……

 風子が海面に消える。
「って、あいつ泳げないのか」
 慌てて駆けつける朋也。


「有意義な海中遊泳でした」
「いや、お前おぼれてただけだからな」
 服を海水で塗らした朋也が不機嫌に言う。
「そんなことないです。風子、ちゃんと泳げます。ガッツ石松くらい」
「奴がどれだけ泳げるか知らねえし」
「とにかく、風子は海中遊泳を十分楽しみましたから、もういいです」
 頭の先まで海水につかり、濡れた髪を分けながら言う風子。
「後は岡崎さんに付き合ってあげます」
「そうかよ。じゃ、ヒトデでも愛でて遊ぶか?」
「それは高雅な遊びですね。岡崎さんにしてはいい趣味です」
 少し嬉しそうに、だがそれを隠すように言う。
「じゃ、とりあえず飯食ってからにするか。今朝、古河のところに寄ったら早苗さんが弁当をくれたからな」
 朋也は荷物の中から包みを取り出す。
「それは海の昼食として有名な伸び切ったラーメンですか」
「そんな嫌がらせを早苗さんがするかよ」
「では、たぬきそばですね。具なしのそばに適当な名前つけた」
 風子は包みを興味深げに見つめる。
「だから違うっていうの。サンドイッチか何かだろう。あそこパン屋だか……ら……」
 朋也は嫌な予感がした。
 パン屋。
 そう、あそこはパン屋だ。
 そして早苗さん。
「…………」
「どうかしましたか?」
「いや……お前、食べてみろ」
 中から出てきた一見普通のコッペパンを風子に差し出す。
「ではいただきます」

 はむっ

「…………」
 朋也はその様子をじっと見詰める。

 はむはむはむ……

「わわっ! ぺっぺっ。何ですかこれはっ」
 風子が意味不明の言葉を吐きながら言う。
「まずいですっ! ピーマンとにんじんの次くらいにまずいですっ!」
「そうか、やっぱりな」
 パンの中にはおいなりさんが入っていたという。


「そろそろ夕方か」
「いえ、まだ昼過ぎです」
 日が傾いて、オレンジ色に辺りが染まる。
「そろそろ帰るか」
「まだ遊びます」
 言う事を聞かない風子。
「また、いつでも来ればいいだろ?」
「…………」
 風子は名残惜しそうに海を見る。
 海。
 ヒトデのいるところ。
 だから来たかった。
「…………」
 だが
「いつでも一緒に来てやるからさ」
 一人だったら、来なかっただろう。
「じゃあ、明日ですっ。明日また来ましょう」
「無茶を言うな」
 二人でなら、来たかった。
「岡崎さんは嘘つきですっ。いつでもと言ったのに」
 だから、これからも。
「限度ってものがあるだろう」
 何度でも。
「分かりました。風子、話のわかる女です」
 二人で一緒に。
「明後日にしましょう」
「全然わかってねえ」

 風子の夏は、始まったばかりだ。


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