月が、満ちていた。 俗世の喧騒も灯かりも遠いこの寺も、月が静かに照らしていた。 「ふむ。名月とはこのような月のための考案された、物言いではあるまいか」 寺の正門へと向かう、長い階段の頂上付近。 一人の男が、段に座して月を愛でる。 「これで冷酒とおなごなどおれば、言うことはないであろうに。やれやれ、この世に私の知るおなごはあの癇癪持ちの女狐しかおらぬ」 男は愉快気に笑い、首を振る。 「今も毒々しい妖気を、門内より出していようおなごなど、興が冷めてしようがない」 一人飄々と語るその長髪にそよそよと、風が通り抜ける。 「もっとも、立ち聞きする無粋者よりはいくらかましではあるがな。のう、白髪の紅き弓の者よ」 男が、言葉と共にゆらり、と立ち上がる。 彼が言葉を放った暗闇から、男が現れる。 「悪いな。無粋は私の性分でな。お前のように雅を愛する生涯は送ってはいない」 闇から現れた騎士は、悪びれもせず、敵意を隠そうともせず、段上へと現れる。 「ふん、この月夜にいくさか。やれやれ、サーヴァントには雅を理解するものはおらぬのか」 男は敵意の欠片も見せずに、からからと笑う。 「このような月夜なれば、父の仇討ちすらも忘れて夜空を見上げるのが風流だというのだが」 「月など私には滲んだ黄色い光に過ぎん。そんなものを褒め称える謂れなどない」 紅き騎士──アーチャーは吐き捨てるようにそう言う。 「はて、これは異なことを。月が滲んでいるとは。朧月でもその様に喩えた者は知らぬ」 「ふん。悪かったな。雅とやらな表現など知らないものでな」 「そうではない。おぬし、月をまともに見たことがないのではないか?」 雅の剣士─アサシン、佐々木小次郎がアーチャーを真っ直ぐに見つめる。 「そう言ったはずだ。月など見る主義ではない」 「ならば何故、月が滲んでいると思う?」 「何?」 小次郎は武器を構えない。 自然体でアーチャーの前に立ちはだかる。 「月は滲んでなどおらぬ。嘘だと思うなら見てみるがいい」 小次郎は自ら上を見上げ、月を眺める。 「何の策略だ? そんなものに……」 のるものか、そう言うつもりではあったが、小次郎の殺気の欠片もない様子に、それ以上は言わなかった。 「ふん、何だか知らんが見るくらいなら乗ってやろう」 アーチャーはそう言って空を見上げる。 そこには月があった。 望月の明かりは、この闇の中にあって眩しく、目を背けたくなるほどだ。 風が流れる。 雲が流れる。 月は、最大の明るさをもってアーチャーを照らしているが、その輪郭は闇の中に滲むことはなかった。 「どうだ。月は滲んでいるか」 「いや……どうやら私の思い違いのようだ」 アーチャーはあっさりそれを認める。 「この世に滲んだ月などない。月を滲ませているのは人そのものだ」 小次郎は月を見上げたまま、詠うように言う。 「そなたは如何なる時に月を見上げたのだ?」 小次郎の問いに、アーチャーは答えられなかった。 自分でも記憶が曖昧なほど遥か昔の遥か未来。 アーチャーは確かに月を見上げた。 あれは戦場のことだっただろうか。 彼に味方はいなかった。 敵は味方だった。 何度目の裏切りであっただろうか。 彼はまた、裏切られた。 心から信頼していた人間にすら、裏切られた。 自らの手で裏切った者を殺し、それを収めた。 慣れていた。 裏切りにも。 仲間が死に、仲間だった者を殺すことにも。 戦場で一人立ち尽くす。 何もすることがなかったので、空を見上げた。 そこに月があった。 欠けることのない月があった。 その時の月は、滲んでいた。 水彩画のように、滲んだ月が、夜空に浮かんでいた。 慣れているはずだった。 平気なはずだった。 だが、本当は────。 「月を滲ませているのは人そのもの、か。ふん。だったらもう二度と見ることはあるまい」 悪態をつくと、アーチャーは小次郎に背を向ける。 「──戦わぬのか?」 「やる気が失せた。次は月のない夜にでも来るとしよう」 そのままアーチャーは、茂みへと去っていった。 残された小次郎は、再び空を見上げる。 「ふむ。滲月を見るは英雄の理か。さすればこの偽りの身も────」 寒空の果て、月明かりが全てを照らしていた。 |