「ジューンブライドというのは、西洋の言い伝えなの。六月は、ローマ神話でいうところの家庭の守護女神ジュノーの月だから、その月に結婚した女性はジュノーの祝福を受けて、幸せになれるとされているの」
まだいくらか頬を染めたままのことみが、みんなに向けて説明した。
あたしも含めて、ことみ以外の誰もが、六月の花嫁は幸せになるという漠然なことくらいしか知らず、なぜそう言われているかについては知らなかったためだ。
椋と部長は、ことみの説明に何度も首を振っている。やっぱり女の子、そういう話題には興味があるらしい。朋也は興味なさそうにぼーっとしていた。
「へー」
あたしはと言うと、ことみの相変わらずの知識に感心しながらも、頭では別のことを考えていた。
「朋也っ!」
昼休みの終わったこの教室に、杏が怒鳴り込んでくることくらい、いくらでも予想できたことだった。
それなのにどこかへ逃げ出そうとも思わずに、俺はなんとなく教室に戻ってきてしまっていた。最近身についてしまったこの習性が恨めしい。
「ことみに何したのよっ」
同じクラスの藤林がいるのは当然としても、めったに来ない古河でさえ、入り口からこっちの様子を窺っている。
それでもことみの姿は見えなかった。そしてことみがいないことに、少しほっとしている自分に対して嫌な気分を抱いた。
「あんたがいつまで経っても来ないから、ことみに聞いたらいきなり泣き出しちゃうし、大変だったのよ!」
周りから注目を浴びているにもかかわらず、杏の声は大きい。
「まあ、行くのは決定で良いんだけど……ねえ部長、ことみ、浴衣は持ってるの?」
またもや杏の突然の一言。
だが俺は何故浴衣かとは聞きかえさなかった。
何故なら夏祭り=浴衣と言うのは永遠の方程式だからだ。
「ちなみにこれはテストに出るわね」
「だな」
「な、何のテストなの?」
「で、どうなの? 持ってるの?」
ボケに対応できなかったことみを放って、再び聞く杏。
「わたしは持ってます」
「浴衣は……持ってないの」
ほう、ことみは浴衣持ってないのか。
「おい、あれじゃないか?」
全員の視線が春原の指差す方向を辿る。そこには、やや金髪の名残を残す白髪に、ごく薄い茶色のYシャツ、グレーのスーツをはおった"紳士"が、右手を軽く挙げて近づいてきていた。日本人にはあまり似合わない茶色のハンチング帽も、自然に着こなしている。
ことみのほうも紳士の姿に気づき、軽く会釈をした。
顔を上げたことみが軽く微笑していることに、一同が震撼した。
「おいおいおい!」
小声で騒ぐ春原の頭をはたいて、朋也がつぶやく。
「…………親戚かなんかじゃないか?」
「え? ことみって外国の血が入ってたの?」
「…………知らない」
「……」
「……」
人がある選択肢のうち一つを選ぶと、それ以外の選択肢の先にある未来は消滅する。
だが。
だが、もしも一度存在した世界が消えることがないのなら。
それは消滅したのではなく、別の平行世界が作られたのではないのか。
この世には選択と可能性の限りの平行世界が存在する。
それがパラレルワールドの原理だ。
世界に記録される異世界の中で、最も科学的な理論だ。
別可能性の世界なら、幽霊も妖精も説明がつく。
死んだ人が生きている可能性の世界もあれば、人間でない知的生物が進化した世界もある。
それらの世界とこの世界は何らかの方法で行き来できるのなら。
全ての説明はつく。
だが、この理論は推論ばかりで、確証がない。
ことみはまだ目が点状態だった。何度か身体を揺さぶって、ようやく目がこっちの世界に戻ってきた。
「……………びっくり」
言うと同時に顔を赤くすることみ。しまった、ちょっと激しく揺さぶり過ぎたか。
いや、そんなはずはない。かなり控えめにしたつもりだ。その辺りはちゃんと分かっている。
「朋也くん、大アップ」
「ぁ」
言われて気付いた。ことみの顔が目前だということに。
僅かに頬を染めている。それを見て俺も顔が熱くなる。
「朋也くん、顔まっか」
「こ、ことみだって赤いじゃないかっ」
「うん。顔が熱いの」
「俺も熱い」
「ぽーっとなってるの」
よほど急いでいたのか、最後の署名は途中で途切れていた。
【滝鼻】「…どういう意味なのっ?」
【堀内】「俺に訊くなよ」
【川相】「すみません。わたしにも、わからないです」
【滝鼻】「…鹿取、わかる?」
【鹿取】「え?…、私?」
【鹿取】「えっと…アイではだから、私ではこのピッチャーを…」
【原】「使いこなせないので、君で使ってね」
【原】「長嶋茂雄」
【滝鼻】「それじゃ…最後のナガジマっていうのは…」
自分自身に答えるように、原は頷いた。
【原】「間違えてるけど、誰も指摘しなかったの」
誰も、何も言わなかった。
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